『パノラマ島奇談』
江戸川乱歩著
昭21.9 鎌倉文庫
同じM県に住んでいる人でも、多くは気づかないでいるかもしれません。
I湾が太平洋へ出ようとする、S郡の南端に、ほかの島々から飛び離れて、ちょうど緑色の饅頭をふせたような、直径二里たらずの小島が浮かんでいるのです。
今では無人島にもひとしく、附近の漁師どもがときどき気まぐれに上陸して見るくらいで、ほとんどかえりみる者もありません。
ことに、それはある岬の突端の荒海に孤立していて、よほどの凪ででもなければ、小さな漁船などでは、第一近づくのも危険だし、また危険をおかして近づくほどの場所でもないのです。
『パノラマ島奇談』はこんな書きだしではじまります。
M県は三重県、I湾は伊勢湾、S郡は鳥羽を含めたかつての志摩郡のことといわれます。
名張出身の乱歩は大正5年の晩秋から1年余り、鳥羽造船所でサラリーマン生活を送りました。
当時のことを書いたエッセイには給料や仕事の内容、風光明媚な鳥羽の自然などが描かれ、万事におだやかな生活だったことをうかがわせます。
ところが、『パノラマ島奇談』はこうした生活とは似てもに似つかぬ 奇怪、不思議、幻想にみちた物語です。
とてつもない巨万の富を得た男が、小さな島に夢想郷をつくり上げるというもので、この夢想郷がとんでもなく奇想天外なのです。
読者を、複雑なたいそう魅力的なだまし絵の中に誘い込んでしまう小説です。
乱歩がパノラマ島をイメージした島とはいったいどこなのかは謎ですが、これを夢想しながら旅をするのも面白いかもしれません。